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【HEROES HISTORY#178】キケロ

【HEROES HISTORY#178】キケロ

キケロ、本名マルクス・トゥッリウス・キケロは紀元前106年1月3日、現在のイタリア共和国ラツィオ州アルピーノに生まれました。彼は政治家、弁護士、学者としてローマ共和国の終わりと帝政の始まりを見届け、その人生を生き抜きました。しかし、紀元前43年12月7日、彼の生涯はフィリッピの戦い後の政治的混乱の中で、暗殺によって終わりました。

目次

キケロの生涯

ローマの古代都市アルピヌムで106年BCに生まれたマルクス・トゥッリウス・キケロは、家庭教師からローマの文化や哲学を学びました。弁護士として成功を収め、彼の機知と雄弁さは人々の心をつかみました。彼の議論は論理的であり、その弁護術は今日まで残るローマ法の基礎を築きました。

彼の政治キャリアは彼がシチリアの詐欺師を起訴したことから始まりました。キケロの勇敢さと正義感は人々を惹きつけ、ローマ市民に愛される存在となりました。彼は徐々に上昇し、ついにはローマ共和国の最高権力者である護民官に選出されました。

キケロはまた、評価されるべき作家でもありました。彼の著作には、哲学、政治、修辞学、宗教に関する重要な洞察が豊富に含まれていました。彼のペンは彼の最大の武器であり、彼の思考は何世紀にもわたって世界中の人々に影響を与え続けています。

キケロの最期

キケロの運命はローマ内戦と連動して変化しました。ジュリウス・シーザー、ポンペイウス、クラッススの三頭政治の時代になると、キケロは政治的に孤立し、彼の影響力は衰えていきました。キケロはシーザーの暗殺に関与はしていませんでしたが、シーザーが亡くなった後の混乱の中で彼の立場はますます不安定になりました。

結局、マルクス・アントニウスとの政治的な確執が彼の命取りとなりました。キケロはアントニウスを公に非難し、その行為が彼の終わりを早めることになりました。彼の名前は43年BCにアントニウス、オクタヴィアヌス、レピドゥスの三頭政治によって公的に禁止リストに掲載され、同年、彼は自分の邸宅近くで彼の追手に捕まり、処刑されました。

彼の頭と手はローマのロストラに展示されましたが、それでもなお、キケロの思想と彼の著作は彼の死後も長く生き続けました。彼の死はローマ共和国の終焉を象徴する出来事とされ、彼の生涯と彼の最期はローマの歴史と切り離すことができないものとなりました。

キケロの格言

「およそ神のなしえざるものなし」

キケロの格言、「およそ神のなしえざるものなし」は、彼の哲学と信仰の深さを示しています。彼はローマの政治家、弁護士としてのキャリアの中で、自身の信仰心を疑うことなく、逆境や挫折の中でも常に前向きな視点を持つことができました。

この格言は、神が全知全能であるというキケロの深い信仰心を示しています。彼は、神が無限の可能性を持っており、神が望むことは何でも可能であると信じていました。これは、神の力が絶対で、人間が抱える困難や挑戦は全て神の手によって解決されるという彼の信念を示しています。

この信念はキケロの人生に大きな影響を与え、彼が直面した多くの困難を乗り越えるための力となりました。彼は自分の信念を決して放棄せず、困難な状況に直面しても常に前進し続けました。この強い信念はキケロの格言として後世に伝えられ、私たちに多大な影響を与えています。

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